※またしてもFF14とは関係ない投稿となっております。
誠に恐縮ではございますが、ほぼ自分語りと、
ある人の投稿へのアンサーとして書いておりますので、ご興味の無い方はスルーしていただければ幸いです。
しかしながら、投稿文として何かしら感じていただけて、コメントをいただけるのであれば心から感謝申し上げます。
「聞き分けが良い子供」は、大人ウケがよく、可愛がられる傾向が多いようです。
その反面、「聞き分けが悪い子供」は、一般的に良くないと思われがちですけれど、逆にしっかりとした考えがあるからこそ、素直に大人の言うことを聞かないことがある、という見方もあるようです。
過去に成功した経営者やスポーツ選手、芸術家などは、ある意味「我儘」であることが多く、例え周囲から「無謀だ、止めた方が良い」と思われるような夢や目的に対しても、自分を信じて突き進むことができたそうです。
片や「聞き分けの良い子供」は、協調性は強いのですけれど、他人から見られる自分を意識するあまり、意思表示が抑えがちとなり、同調行動を多く示す傾向があるとのことです。
「そういう子供」は大人になって大きな成果を出しにくくなる傾向が多いと、ある研究で報告されているようです。
なぜなら「そういう子供」は他人の意見に流されやすくなり、本心では「いいえ」でも、「はい」と言ったほうが相手は喜ぶなどと、相手の気持ちを優先してしまうからだそうです。
では、成功するためには「聞き分けの悪い子供」の方が良いのかというと、必ずしもそうでもありません。
「人の意見に左右されない」スタンスが、「自分のことしか考えない身勝手さ」へと繋がってしまい、それが単なる「自己中心的」として受け止められ、結果として周囲から批判の的になってしまう場合も多くなるからです。
何事もバランスが大切であり、人の意見を聞き入れる柔軟性と、人の意見に左右されない強さのバランスが必要となるわけですけれど、とはいえ、それは決して容易ではありません。
例えるなら、何かを判断する時に、周辺の「誰」の意見をどこまで取り入れて、「自分」のアイデアをどこまで生かすのか。
そういう「選択」も必要となるのでしょうね。
本当の「天才」であるなら、他の人の意見は無視しても、結果として良い成果を得られる場合もありますけれど、一般的には、周辺の意見を尊重しながら、他者と共存して生きる道を探していくことが賢明なのでしょう。
「自分」と「他人」の理想的なバランスを考えて、人と一緒に会話したり、価値観を一緒に作り上げていくことが必要なのかもしれません。
※ここまでは、これに関連するあるコラムを参考にさせていただいております。
さて。
私は幼少の頃、プライベートな枠内では、とある事情から、周りに「大人」が多かったこともあり、所謂「良い子」でいることが求められておりました。
それは決して「育ちが良い」ということではありません。
(当時の我が家は昭和の「中流」世帯であり、お世辞にも「裕福」とは言えるものではありませんでしたので。)
「我儘など言わない」「聞き分けの良い」。
でも「頑張り屋」で、家事手伝いや勉強もよくして成績も決して悪くはない。
子供ながらに、「そうであること」が自分にとって必要だったと考えていたのかもしれません。
そしてその期待に応えるべく、それなりに無難に(自分としては)成し遂げてこれたのではないかと思っております。
それでいて、「自分が納得できないことに従う」のは嫌いな子供であったので、その辺は巧く立ち回っていたと思います。
今にして思えば(現在の私から見たら)、相当に「小賢しい」子供であったのでしょう。
それから成人して今、現在。
自分で言うのもおこがましいとは感じますけれど。
私は「公」の立場では指導的立場でもある仕事に従事させていただいており、業務上の資料文章なども作成しますし、大勢の前で講習などすることもあります。
仕事の上での「人に何かを伝える」ことに関しては、どちらかと言えば「得意」な方です。
そういうことが出来なければ成り立たない職場に勤務していることもありますけれど。
仕事の性質上、「曖昧な表現」は致命的であり、「周辺に対して正確な情報を確実に伝える」ことが求められてきましたので。
しかしながら、そういう「公」ではない部分。
こと「私」の部分の、特に自分の「感情」に関わる部分の自己表現についてはどうであったかと、今更ながらに考えると。
・・・・恐らく。子供の頃から、ずっと苦手であった、と思っております。
自分の本当の「コア」の部分での「喜怒哀楽」。
「どこまでストレートに表してしまって良いのか」を瞬時に考え、「言葉を選んで」しまっている・・・・。
ある意味、「そういう部分」に関しては、「口下手」「甘え下手」となってしまっているのだと思います。
ただ、そういう時でさえ、はたから見ればそつなく応対し、決して「そう」とは見せない、見られることはなかったのでしょう。
私は「仮面を被ること」が上手なヒトであったと、我ながら思っております。
職場に関連する環境において、私の周りには、長く闘病生活を強いられている方たちがたくさんいらっしゃいます。
その中には、まだ年端もいかない子供たちも少なくありません。
そういう子供たちは例外なく「良い子」が多いです。
そしてそういう子供たちはほとんどが「甘え下手」です。
子供らしく、自分の気持ちを「伝える」ことができないのです。
そこでの生活においては「聞き分けが良いこと」を求められているからです。
大人や子供も含め、そういう環境にある人たちに、仕事として私がすべきこと以外に、「私自身」が何をしてあげられるのか?。
何十年もこの仕事に携わっている現在でさえ、それについての答えは未だに見つかってはおりません。
私自身が「仕事としてすべきこと」を確実にするだけです。
・・・・ただ。
そういう人たちが、時々垣間見せる「感情表現」。
「聞き分けの良い子供たち」が唯一見せる「子供らしい瞬間」。
束の間、「本当に愛しいと思えるもの」に触れ合う瞬間。
それは愛する「人」「もの」「記憶」などなど。
人によっては様々でそれぞれ違うものなのですけれど。
ある人は、最愛の家族との行楽へ赴いた時の写真を。
ある人は、入院する前に知人に預けてきたという飼い猫の写真を。
ある子供は、家で帰りを待っているという飼い犬の写真を。
ある人は、自宅の庭の家庭菜園や花壇の写真を。
またある人は、長年収集した蔵書の数々を。
その人たちが「それ」を語る時の表情。
本当に、見ている私も思わず幸せを感じるほどの素晴らしいものでした。
そういうものを見る度に、「その人だけの心から大切に思うもの、かけがえのないもの」が、いかに「必要なもの」であるかを感じさせられるのです。
私ができることは、「それ」を決して否定せずに、「それを語る瞬間」を一緒に過ごしていくことではないかと思っております。
例えその人たちが闘病の末、この世からいなくなってしまったとしても。
その瞬間に関われたことを私自身が憶えていること。それを誰かに伝えていくこと。
それが今の私に少なからず出来ることではないかと思うのです。
・・・・。
そして、私にとっても、「そういうもの」はありました。
「聞き分けの良い子供」だった、そして「口下手」「甘え下手」な私が、唯一「周りに気にすることも無く、心から愛しいと思う感情表現を表すことができたもの」。
それは本当に私にとって、かけがえのない大切なものでした。
「それ」は今はもう、この世には存在しておりません。
だからこそ、その「気持ちと記憶」は忘れずにいたいと思っております。
きっと「あなた」にとって「月の彼」がそうであったように。
いつも書いていることではありますけれど、災害や争いが絶えない現代において。
私たち自身にも、いつ、何が起きるかは予想もできません。
「今」がいつまでも続くとは限らないのです。
それでも。
それぞれのヒトにとって、かけがえのない大切なものは確かに在って。
それをお互いが認め合って、共有し合って、次世代に伝えていくということ。
このような時代だからこそ、それが必要ではないかと思っております。
「伝える」ということ。
「あなた」が今、「そういう想い」に至ったこと。
それは「あなた」自身の中で、多くのことが巡り巡って思い悩んだ証であり、「現在の結果」なのでしょうね。
以前にも書いたことですけれど、それは決して無駄にはならず、これからの「あなた」の「糧」となるものだと思います。
願わくば、「それ」が現在の「あなた」自身の全ての「繋がり」を、より良い方向へ進めていくための「道しるべ」となりますように。
私の拙い文章をここまで読んでくださった方々に、心から感謝しお礼申し上げます。