前提として私は黄金のレガシーを総合して見た時に『
面白い』と思った側の人間です。
ただ、全肯定をしたい訳ではありません。ここはちょっとな〜って思う所もあるし、逆にここはめちゃ好き!ってところもあります。
つまりこれは私目線の7.0~7.3までの感想の書き散らしです。肯定的な意見も否定的な意見もあります。
ただ、『このシーン嫌い』とか『このキャラ嫌い』とかは基本あんまりないです。『ちょっと理解出来ね〜』の方が強いです。なぜなら
『
嫌いになるほどそのそのシーン・キャラについて詳しくないから』
この一言に尽きます。多分嫌いになるほどの興味もないんだと思う。
またこれはストーリー改善案とかそういう事も特に書きません。まずそんなこと私の感覚として
ド失礼に当たるし、「今の運営よりも面白い物語書けるぜ!(パッチ10.xまで見据えて)」という自信があるなら既にスクエニに応募してます。
以下パッチ7.3までのネタバレを含みます7.0ストーリーについてClick to showClick to hide
~パッチ7.2についてClick to showClick to hide
パッチ7.3Click to showClick to hide
ネタバレにならない感想
100点満点中、新生エオルゼアを平均の50点とすると
新生→50点
蒼天→150点
紅蓮→50点
漆黒→200点
暁月→500点
黄金→70点
だと思ってます。いやまぁあんまり点数つけるの好きじゃないけど感覚として伝わりやすいんだよね……
7.0感想のところに書いたんですけど、冒険活劇なのか群像劇なのか。まずこの違いで好みが大きく別れるんだと思います。
私はどちらかといえば冒険活劇の方が好きですが、群像劇も普通に好きなので楽しめました。
多分粗を探そうとすればいくらだって見つかるだろうし、そういう感想を書いている人だってきっといらっしゃいます。逆に全肯定みたいな感想を書いてる人だっていらっしゃると思います。
ただ、好きなものが好きじゃなくなる苦しみを私はこれ以上抱えたくないし、だからといって盲信的になりすぎて周りとの気持ちの軋轢も感じたくないです。
だからこそ、自分の気持ちを整理して思ったことを整えるためにこのロドストを書いたし、SNSでの語気強めな「
好き!」「
嫌い!」「
信者!」「
アンチ!」という感想に疲れた人にちょっとでもクッション材としての役割を果たせればいいかなぁって思ったりもします。
もちろん私の周りにも黄金が嫌いと言ってる人も居ますし、逆に結構好きだったな〜って言ってる人もいます。
無理に全部に同意しなくていいんじゃない?
共感できるところはしたらいいし、逆に一生平行線だなぁ〜って思うところがあったっていいと思う。だってそれが人間なんだもの。
1人の人と話してたって「わかる!」と「うーんそれは違うくない?」があるんだから。それでも一緒に遊ぶことはできるし、隣同士に座れるんだからそれでいいと思うな、私は。
以上!7.3までの感想でした。
これは個人的な喜び速報なのですが、紅蓮祭期間にエオカフェに行くことになったのでオルシュファンのランチョンマット貰ってきて家宝にします。
個人的に7.0は(面白いんだけどあと一歩なんかな〜〜)って気持ちでずっと見てました。
多分これに関してはまず『夏休みだよ!』って触れ込みに対する認識が運営側とイマイチ一致しなかったからだと個人的に思ってます。
多分ですけど運営側の意図としては
『世界の存亡とか国同士の権力争いみたいな大きな事象ではなく、ひとつの国が公に開催する伝統の王位継承レースに"当事者ではない立場で"参加する。つまり背負うものがほとんどないってことは夏休みみたいなもんだよね!(特に前半は)』
だと受け取りました。
逆に運営から事前に発表されてた内容を受けた私は
『暁の面々(一部除く)とリゾート地のようなところに行き、レースでは敵対して"直接対決"、休息時間には"暁のメンバーと"リゾートレクリエーションができるぞー!』
だったんですよね。
多分7.0の時にリアルタイムでのバッシングが異常に強かったのはここの認識の差だと思ってます。
特にレースのストーリーは
・トライヨラという国が抱えていた問題
・レース参加者の未熟な部分
・当事者ではないからこそ感じる歯痒さ
この辺が個人的にム、と思った部分でした。
・トライヨラという国が抱えていた問題
まず連王グルージャジャの圧倒的カリスマ性・ブランド性。そしてそれに対する実子ゾラージャへのグルージャジャからのケアの薄さ(プレイヤー目線から見て)。多分問題が大きく発展してしまった要因の大きな部分じゃないかな〜と個人的に思います。
良くも悪くも圧倒的すぎたんですよね、パパチって。
本人の気質によるカリスマ性が高く、ヨカ・トラルで旅をして出会った人達(ハヌハヌ族、モブリン族、ペルペル族、ヨカフイ族、ロスガル族、マムージャ族)も、トライヨラの街の中でも、グルージャジャがどれだけトラル大陸に生きる人達のことを大事にしたいと思っているか。これをレースを通じて聞かされる訳です。
またその上で双頭のマムージャ族、という身体的な特徴も拍車をかけて支持される要因になっていた部分もあると思いました(特にマムージャ族の下りが顕著)。
いま思い返せばこうなった時に一番しんどいのは間違いなくゾラージャだよなぁ。と考えてるんですよね。
産まれた時から立場上引き合いに出されるのは『完璧な王であるグルージャジャ』だし、コーナとウクラマトが養子として引き取られてくる。つまり『お兄ちゃん』になった訳です。
詳しい年齢差などは分かりませんし、ゾラージャが何歳の時にそれぞれが引き取られたかも分かりませんが、長男って疲れると思います。私が弟持ちだから分かります。
"王であるグルージャジャの息子"という色眼鏡付きの周りからの評価
+
自分とは全く性格の違う血の繋がらない急にできた弟妹
多分ここでのストレスは凄かったと思います。
言ってしまえば"ただのゾラージャ"としての居場所が皆無だった訳です。そしておそらくグルージャジャは(特に武王の方は)本人が良かれと思って「流石オレの息子!!!」っていう褒め方をしていると私はイメージしました(実際に言ってた可能性はあるがストーリーを見返してない)。
いやそりゃ……ゾラージャもグレるわな……全員に悪気が無いのが拍車をかけて行き場のない怒りになるよ……
ただ、この問題点の分かりづらいところは上記のゾラージャが思ってる部分に関する情報がほぼ抜けてるところです。
俺たちが関わるのはあくまでウクラマト本人だけなので、そのウクラマトがゾラージャに対して「何考えてるか分からない」って言ってしまったらプレイヤーがそれ以上の情報を得ることはできないんですよ。
特にストーリーを読んでる途中って私はのめり込むタイプなので、冷静にこうやって考えられるのも時間を置いて思い返して状況を整理して……って整えた今だから。黄金通過時はウクラマトと同じく「なんだこいつ……わかんねぇ……」しか無かったし、アレクサンドリアに付いてからは「急に過激んなったな……怖……(ドン引)」でした。
・レース参加者の未熟な部分
まず前提として、グルージャジャがレースを開催した動機が「王位継承権を持っている全員の精神的に未熟な部分が、旅を通じて成長して欲しい」なのは理解しています。だから各々が王になるために欠けてる部分がある事や、それに対してどういう成長を遂げたかって部分は本編でだいたいやってくれてるのであんまり言うこと無いです。
問題はその成長ストーリーが我々からすると「あーはいはい見た見た」ってなっちゃった事なんじゃないかなぁと。
例えばウクラマトであれば、「本人の語る理想がなんだかずっとふわついてる」って部分だとします。
これ、新生時代のアルフィノが似てるんですよね。
方向性は違いますけど、どちらも『自分が上から見た時の景色』をずっと語ってるな〜って印象がありまして。
アルフィノはクリスタルブレイブの件でそれはもう懇切丁寧にベッキベキに折られて、自分の足で前に進んで、『ルイゾワの孫であるアルフィノ』から『暁の血盟のアルフィノ』へと変わっていったじゃないですか。
これは2.5~6.0にかけて丁寧に描写して、本人や関係者(フルシュノパパとか)が成長を実感することによって、今のアルフィノの評価・人気に繋がってると私は思います。
これを1パッチに収めるのはちょっと無理があるよ……
特に6.5の時点ではヒカセンと比較しても実力があって、元気系の快活としたお転婆王女様、ってテイストでお出ししてきたのに、いざストーリーが始まると結構頭で考え込む割には周りが見えてないな……しかも実力はそこまでじゃないんだ……ってところで出鼻をくじかれた感じがしました。
んでまぁストーリーラインも
「みんなの笑顔が見てぇんだ!」→問題に対して解決策を見出す→結果的にその土地の伝統を守ることに繋がる→「みんなのことを知ってもっと好きになっちまった!」
がアルフィノと被って見えちゃって。
まぁでもキャラの成長物語としてはすごいわかりやすい構成だったんだよな〜。二番煎じ感するけど……が私の結論です。
・当事者じゃないからこそ感じる歯痒さ
本当にそのままです。これ上に書いたキャラの成長物語としての要素とも絡んでくるんですけど、光の戦士である自分が
「ま、俺が殴れば全て解決するんですけどね」
という立場になった結果、今この瞬間俺なら解決してたけど譲ろうやないか……という動きがちょいちょい見られるなぁ〜と。
ここが主人公としての立場的にン?となりやすいところだった気がします。
特に蒼天・漆黒・暁月が高い評価を得ている要素の中には「光の戦士の自分でないとダメだった」ことって沢山あると思うんです。
例えば蒼天だったら『暁の血盟最後の灯火』であるのは自分だし、漆黒・暁月では『これまでの旅路で繋いできた人々との絆、そこに少しだけ添えられるアゼムとしての魂の欠片』としては自分しか居ない訳ですよ。
逆に評価が二分されてる印象をよく受ける新生・紅蓮は『きっかけは自分かもしれないが、最終的に自分以外の人物でないと収まらなかった』部分があると思います。
新生は『いち冒険者だった自身が色々な要素により光の戦士となるまでの話』だと考えれば、『あの時あの場にいたのが自分だから光の戦士になったのであって、別に違う誰かでも良かった』んですよ。光の加護自体はミンフィリア始めアレンヴァルドも持ってるし、マジでたまたまあそこに居たのが自分だった。
それに、第七星暦を迎えるにあたって必要だったのは三国のトップによる声明、そしてそのきっかけは帝国との戦いで、そのどれもが『自分が直接なにかの決断を下したわけではない』んですよね。
紅蓮はちょっとややこしいんですけど、『ゼノスの敵(とも)になるのは自分でなくてはならなかったが、アラミゴやドマの独立は自分が手助けをしただけ』って所かなぁと。
ドマなんか分かりやすいですよね。光の戦士である自分が来たぜ!!!って主張したとしても、あの国の人達は『自分達の力でもう一度立つという覚悟』を決めた上で、そのトップにいるのはヒエンしか有り得ない。って想いだったんですよ。
アラミゴもそう。アラミゴ人ではない光の戦士が何を言ったって多分敵にも味方にも何も伝わらない、リセが立ち上がって前を向いて先頭に立つ覚悟をして、それに見合うだけの努力をしたからもう一度みんなが立ち上がったと思ってる。
常々私は言ってるんですけど紅蓮は『強大な戦闘力としての光の戦士』を求められていたのであって、そこに『自分の意思』は関与してない訳です。
多分あえてラベルを貼るのであれば蒼天・漆黒・暁月は『冒険活劇』で、新生・紅蓮・黄金は『群像劇』なんだよね。
多分口に合わね〜〜〜ってなってる人はこの辺の違いも大きいんじゃないかな〜と個人的に思うんですよ。
ただ、だからといってどちらがより優れているか、ってのはまた違う話だと思います。マジで。結局好みなんです。
私は鬼〇の刃(冒険活劇)と鉄○のオル○ェンズ(群像劇)のどっちが優れているか、って話をしているような感じだと思っています。
どっちも違う面白さがあって、同じ尺度では測れなくない?と。
とっちらかって何言いたいかわかんなくなってきた。えーと。つまり7.0は認識のズレとジャンルのズレで大きなギャップを感じやすい状態になってしまったんだな、って思いました。
んでアレクサンドリアの話が始まってから群像劇と冒険活劇を混ぜた結果、中途半端に光の戦士が自己主張する形になって、その歪さが余計に拍車をかけてうーーーん……って感想に繋がったんだと思ってます。
わかりやすい所でいえばリビングメモリーのシャットダウンの下りですよね。
あれ、アレクサンドリア連王国のシステム基盤を破壊する行為じゃないですか。それに対しての責任感を背負っているのはウクラマトなのに、シャットダウンの行動そのものを行うのは光の戦士でしたよね。
「いや落とすのお前ちゃうんかーーーーい!」ってマジで当時叫びました。
これ多分ゲームのシステムとか演出的に仕方なかったのかなぁとは思うんですが、後方腕組み先輩面ストーリーだと思って見てても、なんか中途半端に前に出してくんな〜……って思いました。
その割にはエターナルクイーン討滅戦ではウクラマトがかなり美味しいところを持って行ってるから、こう、あの、噛み合わない歯車を無理やり噛ませてる感じがして。完全に後方腕組み先輩面に寄せるか、俺!俺!俺俺俺俺!!!にするかでもまたなにか違ったのかなぁと思う次第です。